第000013号(泰永08年本紙第0001号)
掲載 泰永08年12月10日
この記事は、群馬高専 Advent Calendar 2021 10日目の記事です。
まず!この記事の公開が大幅に遅れましたことを、心から!心からお詫び申し上げます!!!
○「群嶺」の歴史とこれからを語るみなさんこんにちは!群馬高専で国王をやっております、ヘンリー!と申します。仲良くしてね。Twitterもやっているのでぜひフォローしてください。(品性下劣につき注意)
⇨ヘンリー!(@Henry120901)
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さて、群馬高専には全学生をもって構成される「群馬工業高等専門学校学生会」というものがあります。学生会にはいろいろな機関がありますが、その中に「各種委員会」というものがあります。各種委員会というのは、学級委員会とか、体育委員会とか、文化委員会とかそういうものを指すのですが、その中に群嶺委員会というものがあります。では!群嶺委員会とは何をするところなのでしょうか!?
群嶺委員会は、「群嶺」という学生会の機関誌を編集・発行しています。分かりやすく言えば、「学生の文集を作っているところ」です。私は、今年度の群嶺委員会委員長に就任しました。
今回は、委員長として、「群嶺」の歴史とこれからについて、少し語っていこうと思います。また、今回の記事と同様のものは、今年度の発行する「群嶺第58号」にも掲載されていますので、ぜひそちらもお読みください。
「群嶺」の歴史
まず、簡単に群嶺の歴史について書いていこうと思います。「群嶺」は、群馬工業高等専門学校学生会規約(昭和38年規則第4号)において、群嶺委員会が編集することとされている「学生会の機関誌」です。似て非なるものに群馬高専新聞という「学生会の機関紙」がありますが、こちらは、新聞委員会が編集することとされており、その持つ意味が異なります。群馬高専新聞が報道の使命を負うのに対し、群嶺は、学生生活の一年を学生が自ら総括するという使命を負っています。
群嶺の名称は、昭和37度の教官会議で決定されました。言うまでもなく、群嶺とは、上毛三山のことを指しますが、この語は、後に校歌に「ひろ野を囲む 群嶺よ」と採用されたり、群嶺会館の名称に採用されたりと、群馬高専の学生にとって大変に身近なものとなっています。
群嶺の歴史は、昭和37年夏にまで遡ります。当時、一般科助教授の水沢利忠教官(当時教務主事)は、学生の作文集を作ろうとお考えになり、K君(当時土木工学科1年)にこれを依頼されました。この作文集が後の「群嶺」となります。有志3名から4名という少ない編集委員でスタートを切りましたが、K君を始めとする編集委員と水沢教官は、立派に全484頁に及ぶ群嶺創刊号を謄写版(俗にガリ版とも言います。)でお作りになりました。
以後、本号に至るまで、群嶺委員にその熱意は受け継がれ、今もなお、群嶺は学生の楽しみとする雑誌の地位を得ています。
全部の号が揃っているわけではありませんが、過去に発行された群嶺は、群馬工業高等専門学校図書館の集密書庫に蔵されています。発行された時代背景と合わせて読むと、日本の歴史をたどることもでき、非常に読み応えがあります。初期の号は、印刷会社に製本を依頼することが予算の関係で無理であったため、先述のとおり謄写版で作成されていますし、学生運動が盛んになったころには、その話題が多く掲載されたり、宗教研究などが掲載されたりしており、その時代の技術や文化を今に伝えるだけではなく、群馬高専の自由な校風の息吹を感じさせてくれます。
皆さんも、ぜひ図書館に足を運んで、諸先輩の青春の文に思いを馳せてはいかがでしょうか。
「群嶺」のこれから
次に、群嶺のこれからについて書いていこうと思います。かつての群嶺を読んでみますと、卒業文集的な側面を持った第4・5号があったり、学生運動色の強い昭和40年代に発行された各号があったりと、その時代々々で、群嶺にはいろいろな顔がありました。
こうした頃の群嶺は、特定の学生ではなく、たくさんの学生が思い思いの作品を掲載することができていました。しかしながら、いつ頃からか(少なくともここ20年は確実)群嶺委員会が指定した人だけが寄稿できるという、なんとも不公平な状況が続いていました。
「学生会の機関誌」なのですから、希望する学生は全員寄稿できるようにすべきである。そうは思いませんか?少なくとも、私はこの状況を打破して、かつてのような装いを取り戻そうと思いました。加えて、学生会の機関誌でありながら、学生会的な側面が少ないようにも感じました。もっと学生会の活動にスポットライトを当てても良いのではなかろうか。そうも思いました。
ですから、今年度発行する群嶺第58号は、こうした問題をクリアしたものとするつもりです。具体的には、本科生・専攻科生・教員から自由な原稿を募集したり、今まで学生会の役員しか書いていなかった原稿を評議委員長や各種委員会の委員長などにも書いてもらったりするなどです。
しかしながら、まだまだ未熟であることは痛感しております。私が作った「古いけど新しい群嶺」を、さらに大きく発展させてくれる後輩の登場を心から願うものであります。
群嶺刊行の記
最後に、群嶺創刊号(昭和38年3月31日発行)に掲載された、「群嶺刊行の記」を原文のまま掲載して、この記事を終わろうと思います。水沢教官がお作りになった「群嶺」の栄光の歴史と、今後のますますの発展を心から祈念して、群馬高専 Advent Calendar 2021 10日目の記事「「群嶺」の歴史とこれからを語る」を終わります。ありがとうございました。
群嶺刊行の記
一般科 助教授 水沢 利忠
はじめの思いつきは、国語科として学生諸君の作文集をつくって見ようということでした。それともう一つ、高専が新しく発足したものであるだけに、諸君の作文を通じて世間の人々に高専というものを正しく認識し評価してもらおうという意図もありました。そんなつもりで作文を選んでは筆耕にまわしていますうちに、だんだんと、折角つくるならなるべく高専生活の全貌を盛り込んだものにしたい、という考えが育って来ました。 それで、各自一篇ずつの作文のほかに、学校の諸行事についての作品をうしろに追加することになりました。また、高専の実態と高専生の精神生活を最もよく示すものとして、諸君の日記を掲載することとしました。日記の性質上、迷惑に思われる人もあるかと思いますが、選ぶときに支障がない様配慮はしたつもりですので、御諒承下さい。日記は、記録であるだけでなく自省の材料となるものですが、これを継続するのには強固な意志と習慣づけが必要です。今後とも良習を持続されるよう望みます。
このようにして本誌の内容が充実してきますと、ますます本格的な編集にしたいということになり、校長先生はじめ教官各位からも玉稿をお寄せいただきました。御多用中にもかゝわらず有意義なご作品を下さいました各位に厚くお礼申上げます。
一方、今回の発行を一度限りのものとせず、学校の機関誌として定期的に発行しようではないか、という考えが追々と固まって来て、本誌にふさわしい名称をつけることになりました。名称は校内で公募致しましたがなかなか結論に達せず、教官合議の上で「群嶺」に決定しました。云うまでもなく、上州三山をはじめ衆峰の秀麗を仰いで心を澄ませ、向上研鑽につとめる諸君の機関誌に適切な名称であります。
何にしても第一年度のことですから、前例があるわけではなく、良いと思われることをあとからあとから加えましたので、分量も思いがけずに増え、体裁にも不揃いな点が生じた次第ですが、それだけに、諸君の日々の息吹きが脈々と紙面にあらわれ、読みごたえのあるものになったと確信しています。
印刷や、刷り上がった紙の整理は、事務室の方々と、文芸部・教室委員をはじめ学生諸君総動員でやっていただきました。中にはこのためにずい分熱心に奉仕してくれた人もあります。特に記して謝意を表します。
前にも記しましたように、この号を第一の階梯として、今後は毎年、一歩一歩とよい作品、上手な編集で、みんなの手で「群嶺」を育てて行きたいものです。そのための積極的な協力をお願いして、発刊の辞にかえます。
(昭和38年発行・創刊号から引用)
泰永八年十二月十日
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